ashuとnamyのよもやま日記

ashunamy.exblog.jp

namy:このブログの管理人。いろんなことに疲れて、絶賛ヤサグレ中だったけど、2012.9月、復活しました。              ashu:写真を撮っているだけのヒト。(笑)

2015.12.2 ドイツ クリスマスマーケット 5  ~ ハイデルベルグ その1 ~

今回のツアー参加者は総勢12名。
45人乗りの大型バスをこの人数で1台使いますので、座席は一人2席どころか、一人4席使えるぐらいです。
座石順は決まっていないので、毎日各自が気を使って座っていました。

添乗員さんの、「はい、それでは出発しますが、その前に忘れ物のチェックをしてください。実際に見て、触って確認してくださいね。時計、アクセサリー、スマホ、最近では携帯ゲーム機とかipadとか忘れる方もいますよ。ツアー中に忘れ物をした場合、こちらではまず見つかりません。また、私に「忘れ物をした」とおっしゃいますと、見つかっても見つからなくても費用が発生しますので、忘れたものの値段とよく相談してお声掛けくださいね。いいですか?確認できましたか?今なら取りに戻ることもできますよ。」
という、半ば脅しがかった注意がありました。

今回のツアーの添乗員さんは、お客様満足度90点以上の添乗員さんだそうで、なかなかに手厳しいことも言いますが、抑えるべきポイントはちゃんと押さえてくれるいい添乗員さんでした。
まだ夜が明けきらぬフランクフルトを後に、ハイデルベルグへ向かいます。
ハイデルベルグの駅前で現地のガイドさんをピックアップし、お城へ向かいます。

ハイデルベルグ城のあるハイデルベルグという街は、ライン=ネッカー郡の郡庁所在地で、人口は15万人。
ライン川とネッカー川の合流地点の近くに位置しています。
ネッカー川と旧市街を見下ろす高台にある、かつてのプファルツ選帝侯の宮殿であった城跡、また、ドイツで最も古い大学 ループレヒト=カールス大学(ハイデルベルク大学)があることで知られ、世界中の数多くの観光客や学者を惹きつけています。
京大とハイデルベルグ大学が姉妹校協定を結んでいるとかいないとか。

ハイデルベルグ城の地図です。
f0046614_15301024.jpg

神聖ローマ帝国の時代、この町はプファルツ選帝侯が統治していました。
神聖ローマ帝国では、選帝侯と呼ばれる諸侯が選挙によってドイツ王を選出していました。
そして、選出されたドイツ王はイタリアに赴き、ローマ法王から戴冠されて神聖ローマ帝国の皇帝を名乗れるという仕組みでした。

16世紀以降、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリック(旧教徒)とプロテスタント(新教徒)が激しく対立しました。
1555年、「アウグスブルクの宗教和議」によってカトリックとプロテスタントは同等の権利を持つことが決められます。
しかし、この宗教和議では個人が宗教を選ぶことはできず、都市単位で領主が宗教を決めました。ハイデルベルクはプロテスタントに組することになります。
1618年、カトリックとプロテスタントの対立が頂点に達してドイツ三十年戦争が勃発します。翌1619年、フリードリヒ5世がプロテスタント諸侯によってボヘミア王に選出されます。
 
これに対して、カトリックを擁護するハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世(在位1619~1637年)はボヘミアに軍隊を派遣します。
皇帝軍がプラハ郊外の「白山の戦い」でプロテスタント派の軍隊を打ち破ると、フリードリヒ5世はオランダに亡命します。
彼のボヘミア王位は、一冬だけだったのでボヘミア冬王と呼ばれました。

この三十年戦争で、ハイデルベルク城はカトリック派のバイエルン軍やスペイン軍、プロテスタント派のスウェーデン軍による攻防の舞台となりダメージを受けました。
 
1648年に三十年戦争が終結すると、ウェストファリア条約によってフリードリヒ5世の子、カール・ルートヴィヒがハイデルベルクに帰還します。
彼はハイデルベルクの復興に努める一方で、娘をフランスの太陽王ルイ14世の弟に嫁がせてフランスとの関係を強化しました。

しかし、この婚姻関係は仇となり、1685年にカール・ルートヴィヒの子、カール2世が後継者を残さないまま世を去ると、太陽王ルイ14世がプファルツ選帝侯の地位と領土を要求してプファルツ継承戦争(1688~1699年)が勃発します。
この戦争で、ハイデルベルク城は砲撃や火薬によって破壊されました。

プファルツ継承戦争でハイデルベルクの町も大部分が破壊されました。
プファルツ選帝侯の宮廷はマンハイムに移り、町は放置されましたが、19世紀になってようやく復興されました。

と、こんな歴史があるようです。

ガイドさんによると、現地は前日まで大雨だったそうですが、私たちがついた時は曇天ながらも雨は降ってきませんでした。
気温も12度ぐらいで、もきゅもきゅに着こんだダウンが暑いぐらいでした。
マフラーも帽子も手袋さえもいらないぐらいでした。

まずは観光案内所でトイレを済ませ(ここは無料)、場内を観光します。
今回のツアーでは、イヤホンガイドの貸し出しがあり、観光するときはこれを耳につけて行動します。
騒がしい場所でもガイドさんや添乗員さんの声が聞こえるので、安心です。

まずは、エリザベート門。
f0046614_15341990.jpg

エリザベート門は、1610年にプファルツ選帝侯となったフリードリヒ5世(1596~1632年)が妃エリザベス・スチュアートの誕生日祝いに造らせました。
エリザベスを驚かせるために一夜で造らせたと言われていて、装飾があるのは表だけです。

その装飾。
f0046614_15351091.jpg

一夜で作ったせいか、合理主義の賜物か、この門が見事なのは表だけ。
裏から見ると飾りのないシンプルな門です。

城門塔
f0046614_15414872.jpg

城門塔は1531年から1541年に選帝侯ルートヴィヒ5世によって建設された防衛施設の一つである。現在もこの塔は城の主要な入り口となっている。下層部は陽が当たらない空間で、しばしば城内牢獄と呼ばれた。

城門塔は堀の底からの高さ52m、底面は1辺12.5mの四角形である。この塔はこの城に現存する最も高い塔である。1689年、ループレヒト館の火事の炎がこの塔の屋根に燃え移り、焼失した。現存するスレート葺きの帽子型の屋根は1716年頃にバロック様式で取りつけられたものである。

f0046614_15431342.jpg

正面には3.40mの高さの「門の巨人」と盾を掲げる獅子が飾られている。銀の盾を掲げていたと言われるが、その盾は行方不明になっている。おそらく鋳つぶされたと考えられている。2体の騎士像は1534年と1536年に創られた。この像は塔から張り出した台の上に設置されており、天蓋で護られている。
(wikiより)

この騎士の股間のもっこりしていますね~
f0046614_15443043.jpg

ここには、林檎とか木の実とかの携行食を入れていたそうです。

天井には落とし扉があります。
f0046614_1546497.jpg


悪魔の噛み跡
f0046614_1546252.jpg

城門には、訪問者がノックの合図に使う金属製のリングが取りつけられている。
伝説では、ある城主がこのリングを噛み切ったものに城を譲ると言った。多くの者がこの課題に挑み、悪魔も何度も挑戦した。しかし、悪魔の丈夫な歯が砕けるまで挑戦したが成功しなかった。このリングには小さな噛み跡だけが残された。現在も城門のリングには傷がついている。この噛み跡を「悪魔の噛み跡」と呼ぶ。
(wikiより)

ガイドさんは「魔女」と言っていましたが、諸説あるんでしょうね。

城内に入ります。左手前の建物は、ループレヒト館。
f0046614_15482288.jpg

ループレヒト館(Ruprechtsbau)はプファルツ選帝侯ループレヒト3世にちなんで名付けられた。
ループレヒト3世はプファルツ選帝侯ループレヒト2世の一人息子であった。
1398年以降マインツ大司教とともに諸侯筆頭となり、1400年8月20日にドイツ王ヴェンツェルを退位させた。
ケルンでの選挙で彼が選出された後、ケルン大司教によって戴冠が執行された。
しかし、アーヘンやフランクフルト・アム・マインは彼に門戸を開かず、ドイツ王として承認しなかった。
このためループレヒトの活動は狭い範囲に限られた。
ループレヒトはハイデルベルク城の現存する最も古い建物を建設した。
その後、この建物は、施主の名にちなんでループレヒト館と名付けられた。
ハイデルベルク城の現存部分はこれ以降に建設されたものである。彼はこの建物の他、聖霊教会の建設も始めた。

長らく、ハイデルベルク城の歴史はこの建物から始まったと考えられていたが、しかし19世紀末の改修工事の際に行われた大規模な考古学研究によりロマネスク様式および初期ゴシック様式の窓の断片が発見された。これにより城館の造営開始は1300年頃とされている。

1534年、ルートヴィヒ5世によってループレヒト館に石造の上階が増築された。前面の壁段や建物内の1534という年号は現在でもその改築を伝えている。

ループレヒト館の入り口にある天使の像。
f0046614_15592331.jpg

この建物の入り口の上には天使の像が掲げられている。これは館の主の目印であり、こうした方法で後世の人々にそれを伝えていると推測されている。
また、この二人の天使は建設作業中に足場から転落して命を落とした建築家の息子をモデルにしたという伝承がある。
このために建築家は憂鬱症となり、建設は行き詰まってしまったという。
(wikiより)

城門塔を内側から撮影。
f0046614_1615369.jpg


中央奥の建物がフリードリヒ館です。
f0046614_161138.jpg

フリードリヒ館(Friedrichsbau)はマンハイムの創設者である選帝侯フリードリヒ4世にちなんで名付けられた。
フリードリヒ4世は1608年にプロテスタント同盟の盟主となり、これによりカトリック領主とプロテスタント領主の間の対立を激化させた人物である。
フリードリヒ4世は、さほど教育を受けなかったにもかかわらず、人文科学に多大な興味を持ち、ハイデルベルク大学に歴史学とオリエント学の講座を開設した。
フリードリヒ4世は自分の遊興に多大な富を費やし、国の財政を破綻させた。
後にその放埒加減と宿酔は「故人となって初めて完全な正気に戻った」とまで言われた。
フリードリヒ4世は1606年から1607年に、後にフリードリヒスブルク要塞と名付けられる施設を建設したことで永遠の重要人物である。
この要塞がマンハイムの宮殿と都市の原型となったためである。
ハイデルベルク城での主な成果は彼にちなんでフリードリヒ館と呼ばれる建物とバルコニー棟を建設し、東側の3つの塔を拡充したことである。
(wikiより)

たくさんの彫像が彫られており、それぞれ歴代の皇帝なんですが、一度聞いただけでは覚えられません。
f0046614_169510.jpg


城内のそのほかの建物。
f0046614_1692826.jpg


f0046614_1694010.jpg


オットハイリンヒ館。
f0046614_1611594.jpg

オットハインリヒ館(Ottoheinrichsbau)はプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒにちなんで名付けられた。
オットー・ハインリヒは1557年にプファルツ選帝侯領にプロテスタントの信仰をもたらし、学問を奨励し、新人医師に死体を解剖することを義務づけた。
彼の図書館(Bibliotheca Palatina)は、この当時の最も重要なものの一つであるが、浪費のかさむ生活態度により彼は破産の危機に瀕していた。
一方、祖母ヘドヴィヒの遺産にも借用書があった。ポーランド王カジミェシュ4世が娘ヘドヴィヒ(ヤドヴィガ)とバイエルン=ランツフート公ゲオルクとの結婚の際に作成した32,000グルデン以上の借用書である。
この借金はポーランド王室から返済されていなかった。
オットー・ハインリヒは利子に利子を加え、その総額を20万グルデンと算出し、1536年に大叔父にあたるポーランド王ジグムント1世のクラクフへ支払いを要求した。
3週間にわたる交渉の末、借金は支払うが、利子の支払いは免除することで決着した。
オットー・ハインリヒの統治期間はわずか3年であったが、最も重要なプファルツ選帝侯の一人である。
彼にちなんでオットハインリヒ館と名付けられたこの城館建築はドイツのルネサンス建築の最も傑出した作例の一つである。
(wikiより)

この建物にも彫像があります。
f0046614_16145612.jpg

これらは旧約聖書や神話の人物像である。神話の像が飾られていたために18世紀までオットハインリヒ館は「異教徒の館」と呼ばれていた。
(wikiより)

つづく
[PR]
by ashu_namy | 2015-12-22 16:16 | 2015.12 X'masMarket